迅速な行動力
10月17日に京都を出立し、19日大坂を安芸藩蒸気船万年丸(270トン、元薩摩藩船)で発った大久保たちは、13日三田尻に立ち寄り、西郷と小松が同船していた長州藩広沢兵助らと山口へ赴き、毛利父子に拝謁し、26日に鹿児島に到着するや、直ちに3名で島津父子に拝謁した。
こうして藩主率兵上京を決定した大久保は、11月10日夜7時に薩摩藩蒸気船曲豆瑞丸に乗って鹿児島を発ち、12日正午土佐国浦戸港に着いて、高知城下で後藤象二郎と出兵の打合せをすませてから同夜出帆、14日には大坂へ着き、翌15日入京しています。
足掛け5日で途中土佐藩との打合せもするという驚くべき早さであるが、それでも京都を出てからすでに1カ月近い時間が経っているのであり、もしも旧幕府側に政治力のある人物がいれば、大久保・西郷・小松の3人がいない京都政局を有利に動かすこともできたはずであり、大久保が急ぎに急いだのも当然でした。
こうして2月22日には、藩主島津忠義は西郷とともに三邦丸に乗り、藩有蒸気船平運丸(150馬力、750トン)と同蒸気船翔鳳丸(461トン)および購入したばかりの蒸気船春日丸(300馬力、105トン)に三000の兵を分乗させて鹿児島を発ち、海路上洛したのである。
かかる迅速な行動力があったか否かが、大久保たちの勝利と徳川慶喜の敗北とを分ける決め手の一つだったといえるでしょう。